松の屋で味噌ササミカツ定食を食べていたら、店内のBGMから尾崎豊の「シェリー」が流れてきました。
「シェリー いつになれば俺は這い上がれるだろう」
この歌詞が耳に入った瞬間、ふと考えてしまいました。
「俺は這い上がる必要があるのか? そもそも、這い上がるべき場所はどこなんだ?」
【松の屋で感じた「不幸ではない、幸せでもない」感情】
松の屋で味噌ササミカツ定食を食べている今の自分は、不幸ではありません。
- 美味しいご飯を食べている
- お腹が満たされる
- 好きなタイミングで来られる
でも、同時に「幸せ」とも言い切れない。
- 特別な何かを成し遂げたわけではない
- 何かに夢中になっているわけでもない
- 「これが俺の求めていた人生だ!」とは思えない
つまり、今の自分は「満たされているけど、満たされていない」。
日々の生活に困っているわけではない。
でも、「これでいいのか?」という気持ちが、尾崎豊の歌詞とともに胸に刺さるのです。
【「這い上がる」とは何か?】
「這い上がる」という言葉は、どこか「底にいる自分」を前提にしています。
でも、本当に自分は底にいるのでしょうか?
・安定した生活がある
・好きな時に好きなものを食べられる
・生活に困ることはない
これを「底」と呼ぶのは贅沢なのかもしれません。
しかし、尾崎豊の「シェリー」を聞いて感じるのは、「物理的な底」ではなく「心の中の満たされなさ」です。
それは、夢を追いかける熱量がないことなのかもしれないし、何かに本気で打ち込んでいないことなのかもしれない。
松の屋で味噌ササミカツを食べながら、自分は何を求めているのか?
結局のところ、「シェリー」の歌詞が刺さったのは、「自分はどこに向かっているのか?」を考えさせられたからなのでしょう。
- 俺は這い上がるべきなのか?
- 這い上がるとしたら、どこを目指せばいいのか?
- そもそも、今のままで悪いのか?
松の屋の味噌ササミカツ定食は、変わらず美味しい。でも、それだけでは満たされないものがある。
「不幸ではない。でも、幸せとも言い切れない。」
そんな感情を持ちながら、今日も松の屋で味噌ササミカツを食べています。