『マルホランド・ドライブ』を観た──夢と現実が交錯する迷宮へ

【映画】

デヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』を観た。

これはただの映画ではない。

夢、欲望、後悔、憧れ、そして現実の残酷さが複雑に絡み合った、まるで迷宮のような作品でした。

ストーリー:ハリウッドの闇と幻想

物語は、記憶を失った謎の女性リタと、ハリウッド女優を夢見るベティが出会うところから動き出す。

リタの記憶を取り戻すために二人は行動を共にするが、やがて現実と幻想の境界が崩れ、観る者を混乱へと引きずり込んでいく。

前半はミステリーのように展開し、二人の関係が深まる。しかし後半、物語は一転し、すべてが反転する。

登場人物の名前や関係性すら変わり、観客は何が現実で、何が虚構なのかを考えさせられる。

支離滅裂だが、ギリギリなんとなく内容がわかるような、わからないような映画だった。

デヴィッド・リンチの悪夢的演出

リンチ監督は、映像と無音で観客を圧倒する。印象的だったのは、クラブ・シレンシオでののシーン。

音楽と幻想が絡み合い、まるで夢の中にいるような感覚に陥る。なぜこれを見ているのか、映像も夢のように感じる。

また、映画の冒頭に登場する謎の男がカフェで語る「背後の怪物」の話。

この場面の不穏な空気と、実際に怪物が現れる瞬間の恐怖は、現実と悪夢の境界が崩れる象徴的なシーンだった。このエピソードも終始意味がわからなかった。なくても話は成立している。

夢と現実の解釈

この映画は、大きく分けて「前半が夢、後半が現実」という構造になっていると解釈されることが多い。

前半のベティは、演技もうまく、ハリウッドで成功しそうな理想的な人物として描かれる。

一方、後半に登場するダイアンは、現実の中で挫折し、嫉妬や絶望の中にいる。

つまり、ベティ=ダイアンであり、前半の物語はダイアンが「こうだったらよかったのに」と願う幻想だと考えられる。

リタに関しても、前半では無力な存在として描かれるが、後半では成功し、ダイアンを拒絶する人物となる。この対比が、ダイアンの苦しみをより強調している。

また、映画の中には「青い鍵」「箱」「老人」など、謎めいた象徴が多く登場する。

青い鍵と箱は、現実へと戻る鍵となり、ダイアンの罪悪感や破滅を示唆していると解釈できる。

観終わった後の余韻

『マルホランド・ドライブ』は、決して一度観ただけでは全容を理解できる映画ではない。

それどころか、何度観ても新たな発見がある。観終わった後も頭の中に残り続ける映像、音、そして謎。これこそがリンチ映画の魅力なのかもしれない。

この映画をどう解釈するかは観る人次第だが、少なくとも「夢」と「現実」が入り混じることで、成功と挫折、希望と絶望が対比される仕組みになっていることは間違いない。

「これは一体、何だったのか?」と考え続けること自体が、この映画の本質なのだろう。見る価値はあるかと言うと、あった。

色んな解釈をしているブログがあるので、そうだったのかと発見するのも面白い。

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