映画『ラストエンペラー』は、清朝最後の皇帝・溥儀の壮絶な人生を描いた作品だ。
華やかな紫禁城から政治の駒として翻弄される人生、戦後の再教育と、その生涯は波乱に満ちている。
だが、この映画が単なる歴史映画ではないのは、その根底に「支配と利用」の構造が描かれているからだ。
皇帝とは何か? 実権なき「ブランド」の利用価値
映画序盤、幼い溥儀が紫禁城で育てられるシーンは圧倒的な豪華さを誇る。
だが、実際には彼には何の権力もない。宦官たちの支配下にあり、政変が起こればあっさりと外に放り出される。
「皇帝とはただのブランドであり、実権は別の者が握る」という構造が浮き彫りになる。
満洲国の傀儡政権と「権力の演出」
日本の支援を受けて満洲国の元首になるが、それも実質は操り人形。日本軍の意向に逆らうことはできず、彼の決定権はほぼゼロだ。
ここで見えるのは、「権力があるように見える者」と「実際に権力を持っている者」の違いだ。
これは現代にも通じる構造であり、表向きのトップと、その背後で動かしている者の存在は、政治でも企業でも同じだろう。
戦後の再教育とアイデンティティの崩壊
戦後、中国共産党の再教育を受け、皇帝から一市民へと変わっていく。
紫禁城で育った彼にとって、これは「アイデンティティの書き換え」に等しい。
だが、彼は最後にはその生活に適応し、かつての地位への未練すら消えていく。
人はどんなに支配的な環境に置かれても、時間とともに順応してしまうのだ。
現代における「ラストエンペラー」とは
この映画を現代に当てはめると、似たような権力構造が浮かび上がる。例えば、ピーター・ティール、ドナルド・トランプ、イーロン・マスクの関係性だ。
トランプは「アメリカ第一主義」を掲げた大統領であり、彼のカリスマ性は絶大だった。
しかし、彼を支えていたのはシリコンバレーの異端児ティールや、反体制的なスタンスを取るマスクのような存在だった。ティールはトランプの勝利に大きく貢献し、マスクはSNSを駆使して言論空間を作り替えた。
つまり、トランプは表向きのリーダーであり、彼を支えたり、利用したりする者が背後にいたという点で、溥儀と共通している。
イーロン・マスクはどうか? 彼はトランプほど傀儡的ではないが、「X(旧Twitter)」を掌握した今も、ティールのような影のフィクサーたちと影響を与え合っている。
表向きの「自由主義者」として振る舞う一方で、プラットフォームを通じて新たな権力構造を作り上げつつある。
わかりやすい表ではなく裏に気づく
『ラストエンペラー』は、単なる歴史映画ではなく、権力の表と裏の構造を描いている。表向きのリーダーがいても、それを操る者が存在し、時にはその関係が逆転することもある。
トランプ、ティール、マスクの関係も同じだ。誰が皇帝で、誰が黒幕なのか、その境界は曖昧で流動的だが、「利用する者」と「利用される者」の関係性は現代でも変わっていない。
結局、時代を超えても「ラストエンペラー」は生まれ続ける。そして、多くの場合、その「皇帝」自身は、利用されていることに気づいていないのかもしれない。