呉勝浩の長編ミステリー「爆弾」は、取調室と連続爆破事件を舞台に、警察と爆弾魔スズキタゴサクの心理戦を描いた作品です。
続編「法廷占拠 爆弾2」は、その約1年後の東京地裁での法廷占拠事件を描き、前作の余韻をそのまま「次の地獄」に接続する構成になっています。
どちらも爆破テロそのものより、「なぜ人はこの男に振り回されるのか」「なぜ正義はこんなにも危ういのか」という問いを突きつけてきます。
第1作「爆弾」。取調室と東京の街を同時に焼く物語
「爆弾」は、ささいな傷害事件で野方署に連行された中年男スズキタゴサクから始まります。酔っぱらいの厄介者に見えた男は、取り調べの途中で「10時に秋葉原で爆発がある」と言い出します。警察は信じていませんが、その直後に実際の爆発が発生し、事態は一気に一変します。スズキはさらに「これからあと3回爆発が起きる」と宣言し、爆弾の場所をすべて教えるとは言いません。こうして、証拠も動機もはっきりしないまま、警察は「止めたいが、振り回されたくはない」という最悪の条件下で、スズキとの心理戦に巻き込まれていきます。
物語の大半は取調室での会話と、現場で爆破を止めようとする警察側の奔走で構成されています。読者は、スズキの言葉の真偽を見極めようとする刑事たちと同じ立場に置かれます。スズキは、弱者を装った皮肉屋でありながら、社会への不満や人間の偽善を淡々とえぐり出す「語り」の持ち主でもあります。読者は彼に共感したくないのに、話を聞かされるうちに「一部はわかってしまう」という不快な共感に引きずり込まれていきます。
「爆弾」が成立している3つの柱
- 連続爆破事件のタイムリミットサスペンスとしての面白さ。
- 取調室という密室での言葉の駆け引きと、スズキの人物像の異様な魅力。
- 「正義を振りかざす側もまた暴力たりうる」という、読後に残る重いテーマ性。
特にスズキタゴサクというキャラクターは、単なる愉快犯ではありません。社会からこぼれ落ちてきた人物でありながら、世間の欺瞞を鋭く言語化するため、警察も読者も「この男は歪んでいるが、完全な嘘ではない」と感じてしまいます。
この「理解したくないのに一部理解できてしまう」という感覚が、「爆弾」をただの事件小説ではなく、現在進行形の社会批評として機能させています。
第2作「法廷占拠 爆弾2」。裁判所という舞台で続く第2ラウンド
続編「法廷占拠 爆弾2」は、「スズキ事件」から約1年後の東京地方裁判所104号法廷が舞台です。前作の爆弾魔スズキタゴサクの裁判中、遺族席から若い男が突然立ち上がり、拳銃で法廷を制圧します。彼の名前は柴崎奏多。顔も名前も住所も自ら明かし、法廷内の様子はネットを通じてライブ配信されます。柴崎は「死刑囚の死刑をただちに執行せよ。ひとりの処刑につき、ひとりの人質を解放する」と要求し、約100人近い人質を盾に前代未聞の籠城事件が始まります。
事件の交渉役を担うのは刑事の高東。彼はライブ配信される交渉の中で、視聴者の反応や世論の空気も背負わされ、常に見られながら判断を迫られます。そこへ前作でスズキと対峙した変わり者の天才類家が再び登場し、スズキ、柴崎、高東という三つ巴の構図が形成されます。スズキは囚人として法廷内にいるにもかかわらず、言葉と存在感だけで事態に影響を与え続ける「見えない爆弾」として機能します。
ここで重要なのは、爆弾2の主役が誰なのかが意図的に揺らされていることです。テロリストの柴崎なのか、交渉役の高東なのか、それとも依然としてスズキタゴサクなのか。物語が進むにつれて、事件の中心が一人の犯人から、「この社会で正義をどう扱うのか」という問いそのものに移っていく構造になっています。
1作目と2作目の違い。何が「続編らしくない」のか
前作と続編を続けて読むと、多くの人が最初に感じるのは「思っていた続編像と違う」というズレではないでしょうか。爆弾の読者が想像する典型的な続編は、「あのスズキとの第2ラウンドがまた取調室で展開される」ようなイメージかもしれません。しかし実際の爆弾2は、舞台も登場人物の立ち位置も構造も大きく変えています。
爆弾は、取調室と街の爆破現場の往復で進行する、比較的一本線のサスペンスでした。犯人候補はほぼスズキに集中し、「この男がどこまでやっているのか」「本当にすべて知っているのか」が焦点です。一方、法廷占拠 爆弾2では、法廷、人質、警察本部、ネットのライブ配信といった複数のレイヤーが重なり、誰が主導権を握っているのかが刻々と変わっていきます。視点人物も増え、人質の心理や傍聴席の空気など、群像劇としての要素が強くなっています。
つまり爆弾2は、前作をただ拡大コピーした続編ではなく、「スズキ事件で開いた傷口を社会全体に広げた物語」です。読者の中に残っていたモヤモヤを、法廷占拠という新しい舞台に持ち込み、「あなたはこの状況で何を選ぶのか」を強制的に考えさせます。
情報メモ:「爆弾」はミステリランキングで高く評価され、「このミステリーがすごい」など複数のランキングで1位を獲得しました。続編「法廷占拠 爆弾2」は、講談社から続き物として正式に位置付けられ、スズキタゴサク再登場を前提に書かれた初めての「続編」です。
スズキタゴサクという「人格そのものが爆弾」のキャラクター
両作の中心にいるスズキタゴサクは、単純な悪役として描かれていません。彼は暴力を行使する犯罪者でありながら、社会に対する鋭い洞察と、弱者として扱われ続けた人間の鬱屈を体現する存在でもあります。爆弾では、彼が予言する爆破の真偽を通して、警察も読者も「信じるべきか無視すべきか」という選択に追い込まれます。無視すれば人が死ぬ可能性があり、信じればスズキのゲームに乗ることになります。
法廷占拠 爆弾2では、スズキは法廷の被告人という立場にもかかわらず、その存在だけで事件全体に影響を与えます。法廷を占拠した柴崎の動機の一部には、スズキ事件への反応や自分なりの「正義」が絡んでいます。つまり、スズキは前作で都市を混乱に陥れた爆弾であると同時に、続編では「人の心を狂わせる残留放射線」のような存在になっているのです。
このキャラクター造形によって、二つの作品は単なる連続事件ものではなく、「一人の男をめぐる反応の連鎖」として連結されます。シリーズとして読むと、スズキをどう評価するかが、読者自身の正義感や価値観を鏡のように映し出していることに気づきます。
爆弾シリーズが扱うテーマ。正義、死刑、観客としての私たち
爆弾では、「正義を掲げる側もまた暴力を振るう」という構図が随所に現れます。警察は市民を守るためという大義名分を持ちながら、スズキに対する扱いが本当に「正義」と言えるのかを問われます。取調室でのやり取りは、犯罪者を裁くための行為であると同時に、権力が弱者を追い詰めている場面にも見えます。この二重性が読者に不快な違和感を残し、単純な勧善懲悪の読み方を拒みます。
法廷占拠 爆弾2では、死刑制度と「観客としての私たち」がテーマの中心に近づきます。柴崎は死刑囚の即時処刑を要求し、その様子はネットで中継されます。視聴者は画面越しに事件を見物し、コメントを流し、誰かの生死を論じます。ここで作品が突きつけるのは、「あなたはただの傍観者なのか、それともこの暴力の一部なのか」という問いです。手を汚していないつもりでも、視線を向け、言葉を投げ、クリックをするだけで、加担しているのではないかという不穏さが作品全体を覆います。
この点で、爆弾シリーズは単なるスリラーではなく、「現代の情報環境と正義の消費のされ方」を描いた作品としても読むことができます。ニュースやSNSで事件を追うとき、私たちはどこまで当事者で、どこからが無責任な観客なのか。作品は最後まで明確な答えをくれませんが、その問いを読者に返してきます。
爆弾シリーズは「正義に酔った社会」そのものを描く鏡
「爆弾」と「法廷占拠 爆弾2」は、どちらも爆破事件や法廷占拠という派手な題材を扱いながら、実は人間の弱さ、社会の歪み、そして正義という言葉の危うさをしつこいほど掘り下げるシリーズです。スズキタゴサクは、犯罪者でありながら、私たち自身の中にある悪意や諦めを映す鏡でもあります。彼に振り回される警察やテロリストたちは、極端な存在であると同時に、現代社会の縮図として描かれています。
読み心地は決して軽くありませんが、その分だけ読後に残るものは大きいです。単に「面白かった」で終わらせず、「自分ならこの場面で何を選んだか」「自分はどこまで観客でいられるのか」を考えるきっかけになります。重いテーマを抱えつつも、物語としての推進力とキャラクターの魅力は高く、骨太なミステリーを求めている人には強くおすすめできるシリーズです。


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