「六四“抗命军长”徐勤先庭审视频首次公开:一个时代的良心见证|历史影像19900317」はどういう内容なのか

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「六四“抗命军长”徐勤先庭审视频首次公开:一个时代的良心见证|历史影像19900317」がyoutubeで共有されました。
内容がわからなかったので、翻訳して中身を確認した記事になります。

1989年の天安門事件は、多くの日本人にとって中国現代史の象徴的な出来事として記憶されています。その裏で、歴史の荒波にのみこまれた一人の軍人がいました。第38集団軍軍長であり、戒厳令の執行を拒んだ徐勤先という人物です。今回公開された庭審記録は、単なる裁判記録を超え、中国という国家の構造、軍と人民の関係、そして一人の軍人の葛藤を生々しく物語っています。

徐勤先とはどんな人物だったのか

徐勤先(ジョ・キンセン)は当時54歳。第38集団軍という精鋭部隊を率いる少将として、天安門事件の際には北京に出動する中核部隊の指揮官でした。中国人民解放軍の歴史の中でも重要なポジションにいた人物であり、軍内でも思想的に独立心の強い人物として知られていました。

彼の名が歴史に刻まれることになったのは、1989年5月18日。中央軍事委員会から北京に入り戒厳令を執行するよう命じられた際、これを拒否したことがすべての始まりです。

豆知識: 第38集団軍は中国北方の中でも精鋭とされ、北京防衛の要とされる部隊。ここが動くか動かないかは、国家の威信に直結する重要事項とされていました。

第38集団軍の役割

第38集団軍は、中国人民解放軍の中でも長年にわたり中核戦力として位置づけられてきた部隊です。河北省保定を拠点とし、北京に最も近い精鋭部隊として、平時は北京市の安全保障と首都防衛を担う位置づけにありました。中国国内では、同軍は政治的にも軍事的にも特別な権限と責任を持つ存在として扱われ、中央軍事委員会の意向を最も直接的に反映する部隊とされます。

歴史的には、朝鮮戦争にも参加しており、高い戦闘能力と統制力で知られ、人民解放軍の中でも象徴的な部隊とみなされてきました。1980年代後半になると、機械化部隊としての近代化も進み、戒厳令発動時の「第一陣」として北京突入を任されるほどの信頼と重要度を持っていました。

天安門事件時、戒厳令の執行部隊として第38集団軍が選ばれた背景には、その強い機動力と政治忠誠度への期待がありました。実際には徐勤先の指揮拒否によって部隊の展開が遅れ、中央からの信頼は大きく揺らぐことになります。この出来事は、第38集団軍が「国家の安定を守る存在」であると同時に、「個々の指揮官の判断が政治に重大な影響を与えうる」ことを浮き彫りにしました。

事件後、第38集団軍は組織再編の対象となり、幹部の入れ替えや直接統制の強化が進められました。中国軍における首都防衛部隊の位置づけは従来以上に厳格化され、党の指導に対する絶対的な従属が明確に再確認される契機となりました。

今日の研究者の間では、第38集団軍は単に天安門事件の中心部隊というだけではなく、中国の軍事・政治体制における「党と軍の結節点」として分析対象になり続けています。その役割の変遷は、中国の統治構造そのものを理解する上でも重要な素材となっています。

裁判で語られた「拒否」の真相

徐勤先は命令拒否を問われ、軍事法廷に立たされました。検察側は、彼が命令を拒否したことで軍の展開が遅れ、国内外に軍分裂の印象を与え、暴徒を助長したと強調しました。

検察側の主張

  • 1989年5月18日に戒厳令の執行命令を受けたにもかかわらず、出動を拒否した。
  • その結果、軍の統率に混乱をもたらし、国家の威信を損ねた。

特に問題視されたのは、「このような任務は歴史の審判を受ける」という徐の発言です。この言葉は、国家による統制の強い中国では異例であり、軍人としての姿勢そのものが問われることになりました。

徐勤先の反論と弁明

徐は、命令そのものを組織として遮断したわけではないと述べました。政治委員を通じて命令は伝達しており、自身はあくまで「個人的に参加したくない」と表明しただけだと説明しています。

その背景にあったのは、政治問題を軍事力で解決することへの深い違和感でした。人民と軍が混在する都市に武装部隊を突入させれば流血は避けられない。軍人である前に、人間として、その引き金を引くことはできない。そういう論理です。

日本人視点のポイント: 日本では文民統制が徹底しているため、軍事力の使用には強い規制が働く。徐の姿勢は、日本人の価値観から見ると一定の理解を得やすい。しかし中国軍では、党の命令が絶対であり、そもそも異議申し立ては制度上ほぼ不可能という点が大きく異なる。

軍と国家の関係が浮き彫りになる裁判

この裁判は単なる「軍人の命令違反事件」ではありません。むしろ、中国という国家が軍をどのように統制し、党と軍の関係がいかに密着しているかを示す象徴的な資料です。

徐勤先は、党の命令が形式的な手続きを経ずに軍に下されることに疑問を呈し、「党の名義で軍命令を出すのは不適切だ」と証言したとされます。これに対して徐本人は、「一部の証言は自分の記憶と異なる」と否定しましたが、いずれにしても、軍の統治構造に踏み込む発言が行われたことは確かです。

逸脱が不法行為になる

日本では、軍が国家に完全に従属する構造が戦後一貫して続いてきました。そのため、軍の独自判断で政治問題に関与することは制度上も精神文化的にも強く否定されます。一方、中国では「党が軍を指揮する」という原則が絶対であり、軍は政治の道具です。徐勤先の裁判は、この「党軍体制」から逸脱した行動がどれほど重く扱われるかを示しています。

この違いを見ると、日本人が抱く「軍人として正しい行動かどうか」という評価基準が、中国ではまったく異なる軸で裁かれていることがよく理解できます。

歴史に残された「良心」としての徐勤先

徐勤先は、最終的に命令違反の責任を問われる形になりましたが、彼自身は「党と国家のために意見を述べた」と述べ、自分の行動が歴史にどう評価されるかは法廷に委ねると語りました。これは、個人の軍人としての信念と、国家体制の間で引き裂かれた者の言葉として強烈な印象を残します。

今日の中国では、天安門事件そのものが公的に語られることはほぼありません。その中で、徐勤先のように記録に残り、映像として裁判の場面が公開されることは極めて希少です。これは私たち日本人にとって、政治体制の違いを理解する貴重な材料になります。

徐勤先のその後の人生

戒厳令命令の拒否により軍事裁判にかけられた徐勤先は、1990年代以降、長く公の場から姿を消すこととなりました。判決後は軍籍を剥奪され、政治的地位もすべて失い、事実上の隔離に近い生活に移行したと報じられています。

一方で、海外の人権団体や亡命知識人の間では、徐勤先は天安門事件における数少ない「良心的軍人」として語り継がれ、彼の姿勢は特に高く評価されました。彼の拒否行動は、中国人民解放軍内部にも複雑な波紋を広げたとされ、後年の軍改革や指揮系統の見直し議論の背景の一部を形成したとも指摘されています。

徐勤先は長らく消息が不透明でしたが、2015年前後に健康状態が悪化し病床にあるとする情報が断片的に伝えられました。2021年には死去したと報じられ、享年はおよそ八十代半ばとされます。公的な追悼は行われず、中国国内の報道も極めて限定的でした。

軍の最高指導部に対して命令拒否を示した人物は、中国現代史の中でも例が少ないため、徐勤先の名は現在でも海外研究者によって調査が続けられています。彼の歩んだ人生は、国家と個人の良心が衝突したときに生まれる緊張を象徴しており、天安門事件を理解するうえでも欠かすことのできない存在であるといえます。

一人の軍人の葛藤から見える、国家と個人の距離

徐勤先庭審記録は、天安門事件の裏側でどのような葛藤が存在したのかを示す貴重な証言です。この事件を見ると、中国という国家の統治構造がより立体的に理解できます。そして、軍人であっても、時に歴史の流れに逆らう信念を貫こうとする者がいたという事実は、強い余韻を残します。

歴史はしばしば大きな事件だけが語られがちですが、その陰で一人の人間が何を考え、どう行動したかを知ることで、より深い理解に近づくことができます。

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