政治の街頭演説に、偶然足を止めた。大きな関心があったわけではない。ただ、通りすがりに人が集まっていて、少しだけ様子を見てみようと思っただけだ。
ステージ上では熱を帯びた声が飛び交っていた。叫ぶように政策を語る人、それをスマホで撮影する人、拍手と歓声。それを遠巻きに眺めながら、自分がその輪の中に入っていけないことを、どこか当たり前のように感じていた。
信じていないわけじゃない。でも期待はしていない
自分は「政治に絶望している人間」ではないと思う。ただ、熱狂できないだけだ。政党や候補者の主張が間違っているとも思っていないし、誰かを応援することで人生が変わるとも思っていない。
ただ一つだけ思うのは、まわりの人が、なるべく安心して生きていける世の中であってほしいということだ。特別な願いではない。むしろ、それ以上のことは、もう望めなくなっているのかもしれない。
氷河期世代として社会に出て、ずっと「足りなさ」と一緒に生きてきた。余裕のない生活、チャンスの少ない職場、手の届かない制度、増えていく搾取。
それでも生きるしかなかった。だから今さら、声を上げようとは思わない。でも、静かに願うことはある。
熱狂の輪の外から
演説を聞いていた人の中には、本気で応援している人もいた。名前を叫んでいる人もいたし、手を振っていた人もいた。たぶん、ああいう人たちが、社会を動かすのだろう。
でも自分は、そこに混ざれなかった。混ざりたいとも思わなかった。どこかで「それは自分の役割じゃない」と思ってしまっている。自分が変わっても、社会が変わるわけじゃない。投票したって何かがすぐに良くなるわけでもない。
それでも、日々は続いていく。ニュースを見て、家計を気にして、電車に乗って、仕事に追われて、帰ってきて眠る。その繰り返しの中で、「このままでいいのか?」という疑問だけは消えない。
声にしない希望
街頭演説の終わりに、記念写真を撮っていた人たちがいた。握手を求めて並ぶ人、名前を叫ぶ人。眩しそうに笑う人たちを見ながら、ふと、自分には何も残らなかったことに気づく。
「政治なんて関係ない」と思って生きてきたわけじゃない。むしろ、どこかで「期待しても意味がない」と言い聞かせてきただけだ。自分にはチャンスがなかったから、関わらないようにしてきた。自分を守るために。
それでも、社会が穏やかであってほしいと思う。今の若い人たちが無理をしすぎずに暮らせたらいい。年配の人たちが孤立せずにいられたらいい。そう思うことくらいは、許されるはずだ。
「応援はしない」でも「無関心ではない」
少数派だから、参加しても他の多数が優先されてしまう。
今の政治を応援することはない。でも、見ていないわけではない。黙っているからといって、何も思っていないわけじゃない。選挙に行くのも義務感でしかないけれど、それでも毎回欠かさない。
自分が変えることはできない。でも、誰かが困っているときに、少しでも暮らしやすくなる方向へ、社会が動いてくれることを願っている。それが、自分なりの「政治との距離の取り方」なのだと思う。
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