2025年のThe MANZAIをTVerで視聴しました。毎年のことですが、見終わったあとに残る感覚は一貫しています。やはり、今の自分にとってはM-1グランプリよりもthe MANZAIのほうが、純粋に面白いと感じます。
出演している芸人を見渡すと、いわゆる若手は少なく、長年テレビで見続けてきた顔ぶれが中心です。その時点で、番組の性格がはっきりしています。流行や世代交代を競う場ではなく、「今この芸人がどこまで漫才を磨き上げているか」を見る場です。
M-1とthe MANZAIは、そもそも評価軸が違う
M-1グランプリは、もはや単なる漫才大会ではありません。芸人のこれまでの背景、コンビの物語性、敗者復活やラストイヤーといった文脈が強く作用します。その結果、漫才そのものの出来とは別の理由で評価が上積みされる場面がどうしても出てきます。
もちろん、それがM-1の魅力でもあります。ただ、年による質の落差が大きく、「今年は決勝だけ見た」「今年はほとんど見なかった」という年が出てくるのも事実です。純粋なネタの面白さだけを求めると、見る側の集中力が途切れやすい構造になっています。
一方でthe MANZAIは、その逆です。芸人の来歴を知らなくても成立します。評価されるのは、その場で披露された漫才の完成度だけです。だからこそ、ハズレが少ない。期待値を大きく下回る時間がほとんどありません。
中年以降にこそ刺さる番組構造
the MANZAIは、若い視聴者向けの番組ではないと思います。人生経験を重ね、テレビのお笑いを長く見てきた人ほど、楽しめる構造になっています。
ここで楽しんでいるのは、優勝や順位ではありません。
- この芸人は今がピークなのか
- 去年よりもさらに面白くなっているのか
- 少しずつ衰えが見え始めているのか
- 新しい型を作り、再び跳ね始めたのか
こうした「表層の変化」だけを淡々と観察する楽しみがあります。感情移入も不要です。応援もいりません。ただ、目の前で繰り出される技術と構成を味わうだけです。
漫才の技術レベルは、異常なほど高くなっている
ビートたけしが毎年のように口にしている言葉があります。漫才の技術レベルが上がりすぎている、という指摘です。これは誇張ではありません。
間の取り方、構成の精度、言葉選び、客席との呼吸。どれを取っても、かつての「うまい漫才」とは次元が違います。単に真似るだけでも、かなり困難な領域まで洗練されています。
それでもなお、芸人たちは更新を続けています。同じ型をなぞるだけでは通用しない。観客も芸人側も、高水準に慣れてしまっていて、高みを目指し続けるしかなくなっています。
AI時代と漫才の進化
今、AIによってあらゆる分野が加速度的に進化しています。文章、画像、音楽、映像。改善のスピードは、人間の感覚を置き去りにするほどです。
そんな時代だからこそ、人間が人間に向けて磨き上げる技術としての漫才は、さらに高度化していくはずです。構成の緻密さ、言語感覚、間の設計。これらは簡単に自動化できません。
The MANZAIで見られるのは、そのお笑いの最前線です。流行りでも若さでもなく、「どこまで到達できるか」という一点に集中した表現です。
TVerでまだ視聴できるという事実
the MANZAI 2025は、現時点ではTVerで視聴可能です。時間を取って、腰を据えて見る価値があります。
ただ、完成度の高い漫才を連続で浴びる。その体験自体が貴重になっています。
漫才の技術は、これからも際限なく上がっていくはずです。その過程を静かに観測できる場として、the MANZAIは今後も欠かせない番組として見ていきます。


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