人生の最初の20年くらいは、グラスに水を注ぐように経験を積んでいける。
勉強にしても部活にしても、がんばれば結果がわかりやすく返ってくる。
注いだぶんだけ、水位が上がる。見える。わかりやすい。
でも、社会に出た瞬間、その器はドラム缶に変わる。
一滴ずつ注いでも、まるで水面が動かない。
注いだはずなのに、気がつくと蒸発してる。
ためてる実感がないまま、時間だけが過ぎていく。
気合いを入れて走り出したはずなのに、気づけば空回りしてるような虚しさだけが残る。
けれど、そこにはちゃんと理由がある。
なぜ器は、グラスからドラム缶に変わるのか
人生のフェーズが変わるから。
学生時代は3年スパンで成果が返ってきたけれど、社会に出てからの人生は40年とか50年とか、もっと長い。
短距離走からマラソンに変わるようなものだ。
求められる経験も、変わっていく。
知識じゃない。信頼とか、判断力とか、言葉の重みとか、見えにくくて、蒸発しやすい。
一夜漬けじゃどうにもならないものばかりだ。
だから、一滴ずつ、注いでいくしかない。
「才能がある人」の罠
うまくやってる人、楽しそうに働いてる人。
その多くは、ドラム缶に水をため続けた人たちだ。
地味で目立たないけれど、根っこが強い。
中には生まれつき水をたくさん持っていた人もいる。
枯れたとき、どうやって注げばいいのかわからず、空っぽになってしまうこともある。
ただし、「才能型は枯れる」っていう決めつけも、また危うい。
本当に才能のある人は、自分でポンプを作り、人のためにも水を注げるようになっていく。
だから、努力と才能って、対立するものじゃなくて、重なりながら育っていくものなんだと思う。
蒸発する水にも、ちゃんと意味がある
注いだ水が蒸発するのは、無駄じゃない。
それは空気を潤し、人に香りを残し、自分の佇まいになる。
経験って、全部が“成果”というかたちで返ってくるわけじゃない。
でも、確かに、世界のどこかににじみ出ていく。
蒸発って「消える」ことじゃないんだと思う。
数十年後、ようやく見えてくるもの
ドラム缶の水って、10年、15年くらいたって、ようやく「お、少し溜まってきたかも」って感じられる。
若い頃には気づけなかった手応えが、ある日ふと、日常の判断や言葉の重みに変わってる。
この経験は、すぐには報われないけれど、確実に“生きる厚み”になっていく。
そして今、器を選び直せる時代に
そう考えていたら、「みんなドラム缶でがんばる時代」じゃない。
効率的にためられるポンプ、仲間との相互注水、プールに変える…。
器そのものを設計し直せる時代に、私たちは生きている。
だから、大切なのは問いかけること。
- 自分はいま、どんな器に水をためてるのか?
- その水は、自分のため?誰かのため?
- 蒸発する水にも、意味があるって信じているか?
器と水は、ともに育つ
注ぎ続けるうちに、器のかたちそのものを変えることができる。
最初はグラスだったけど、途中でドラム缶になって絶望をした。
でも最後には、誰かの喉を潤す水になれたら、それでいいと考える人生観になりました。
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