「ゲームの王国」が問う、理想と狂気の境界線とは何か。小川哲が描いたカンボジアの半世紀

【本】

小川哲氏のゲームの王国(上巻・下巻)は、その問いにまったく新しい角度から切り込んできます。20世紀最悪の人道的惨劇のひとつとされるカンボジアのポル・ポト政権下を舞台に、少女と少年の半世紀にわたるゲームを描いたこの作品は、歴史小説でもSFでも哲学書でもなく、そのすべてを兼ね備えた異形の大作です。

2017年の刊行後に日本SF大賞と山本周五郎賞をダブル受賞し、宮部みゆき氏や伊坂幸太郎氏といった第一線の作家たちがそろって絶賛した本作の、歴史的・社会的な背景を深く掘り下げていきたいと思います。

小川哲という作家と救済としての執筆

この物語を生み出した小川哲という作家について知っておく価値があります。1986年に千葉県で生まれ、東京大学大学院の博士課程に在籍しながら2015年にハヤカワSFコンテスト大賞を受賞してデビューした小川氏は、その翌年にゲームの王国の執筆を開始しました。東大で専攻した表象文化論・哲学の素養を下地に、歴史的事実と哲学的問いをフィクションの形で提示するスタイルは、当時のSF界に大きな衝撃を与えました。

特筆すべきは、著者自身がこの作品の創作動機について語った言葉です。取材で何度もなぜカンボジアを舞台にしたのかと聞かれた小川氏は、文庫版のあとがきでこう記しています。書きたかったから書いた、この小説を書くことが自分の救済になると思ったから書いたと。

外側からの問いに答えようとするのではなく、内側から噴き出す衝動として書かれた小説だという事実は、本作の熱量を理解する上で欠かせない文脈です。2023年に地図と拳で直木賞を受賞した小川氏は今や日本文学界の頂点に立つ存在ですが、その原点ともいえるのがこのゲームの王国なのです。

物語を理解するために知っておきたいカンボジアの歴史

上巻の舞台:1975年、ゼロ年と呼ばれた時代

ゲームの王国を深く楽しむためには、その歴史的背景を理解することが欠かせません。上巻の舞台となるのは、1970年代のカンボジアです。

1975年4月17日、ポル・ポト率いるクメール・ルージュが首都プノンペンを陥落させました。クメール・ルージュとは、フランス語で赤いクメール人を意味し、極端な毛沢東思想に基づいた原始共産制の実現を掲げた武装勢力です。政権を掌握するや彼らは銀行・通貨・学校・病院を廃止し、都市住民を全員農村へ強制移住させました。眼鏡をかけているだけで知識人とみなされ処刑された時代でした。この政権は自らが支配する時代をゼロ年と呼び、それ以前の文明や文化をすべて否定したのです。

ポル・ポトの本名はサロット・サルといい、1925年にカンボジアで生まれました。フランス留学中に共産主義思想に傾倒し、帰国後にクメール・ルージュを組織した彼は、公の場で自身がサロット・サルと同一人物であることを認めたことが一度もなかったとされています。ゲームの王国の主要登場人物のひとりであるソリヤは、そのサロット・サルの隠し子という設定で物語に登場します。虚構と史実が不気味なほど深く絡み合うのが、この小説の特徴です。

知っておきたい数字:ポル・ポト政権の規模とは

1975年から1979年の約4年間で、カンボジアでは推定150万から200万人が命を失ったとされています。これは当時のカンボジアの総人口約780万人の、約4人に1人に相当する数字です。政治的収容所S21(トゥール・スレン)に収容された約2万人のうち、生還したのはわずか8人だったという記録も残っています。カンボジア大虐殺の規模は、ナチスのホロコーストやルワンダ大虐殺と並んで20世紀最悪の人道に対する罪のひとつとされており、国連とカンボジア政府が設立したカンボジア特別法廷(ECCC)が2006年から裁判を進め、最終的に主要幹部への終身刑判決が確定しています。

クメール・ルージュはなぜ生まれたのか

ゲームの王国を読んでいると、一つの疑問が浮かんでくるはずです。これほどの残虐な政権が、どのようにして国民の支持を得て権力を握ったのかという問いです。その背景には、冷戦という国際政治の巨大な力学が働いていました。

1970年にアメリカの支援を受けたロン・ノル将軍がクーデターで政権を奪取すると、ポル・ポト一派は追い出されたシアヌーク殿下と組んで反ロン・ノル連合を形成しました。国民的人気を誇るシアヌーク殿下と手を組むことで、クメール・ルージュは急速に支持を拡大したのです。さらに、アメリカによるカンボジア農村への大規模爆撃が農村の荒廃と民衆の反米感情を強め、クメール・ルージュ支持の土台を作ったとする見解も歴史家の間では広く支持されています。つまり、クメール・ルージュの台頭はカンボジアの内政問題にとどまらず、米中対立・中ソ対立・ベトナム戦争という国際政治の産物でもありました。

ゲームの王国の上巻は、こうした複雑な歴史の流れをゲームのルールを内側から変えようとする者と、外側からルールそのものを破壊しようとする者の対立という鋭い視点で捉え直しています。クメール・ルージュによる恐怖政治を、小川氏はルールに基づく王国の失敗例として冷徹に解剖してみせます。このアングルは多くの読者に強い衝撃を与えました。

上巻と下巻、二つの時代が語るもの

項目 上巻 下巻
時代 1970年代カンボジア 2023年カンボジア
歴史的背景 クメール・ルージュの台頭と恐怖政治 民主化後の腐敗と現代の政治対立
物語の中心テーマ 生存・記憶の原点・ルールの崩壊 記憶・理想・ゲームとしての政治
ジャンルの印象 歴史叙事詩+マジックリアリズム SF+哲学+政治劇

上巻と下巻の間には約半世紀の時間的断絶があります。上巻で少年少女として出会ったムイタックとソリヤは、下巻では50歳を超えた人物として2023年のカンボジアに登場します。この時代設定もまた意味深なものです。

現代カンボジアは1993年に国連の監視のもとで民主的な選挙を実施し、ポル・ポト政権崩壊後の国家再建を進めてきました。しかし、腐敗や政治的抑圧の問題は完全には解消されておらず、社会の不公正と戦う政治家の理想と現実の乖離は、今も続く課題です。

小川氏が下巻の舞台として2023年を選んだことは、過去の悲劇が清算されないまま積み重なった現代のカンボジアを、ソリヤのゲームの王国という理想と重ね合わせるためだったと読むことができます。

この小説の独自のアングル、ゲームという視点

革命をゲームとして捉えるという逆説

ゲームの王国というタイトルが示す通り、この小説の核心にあるのはゲームとは何かという問いです。ゲームとはルールが存在し、そのルール内での競争を意味します。しかしポル・ポト政権は、ルールの外に立ってルールそのものを破壊することで権力を握りました。これが小説の中で繰り返し問われる逆説です。公正なゲームを夢見るソリヤが、ゲームの王国を実現するために手段を選ばない政治家になっていくという構造は、理想と腐敗の境界線がいかに曖昧かを痛切に示しています。

哲学的な問いとして言えば、ルールが存在するゲームと、ルールを随意に書き換える革命は対立する概念です。しかし現実の政治では、正義や理想を掲げてゲームを始めた者が、気づかぬうちにルールを書き換える側に回ってしまいます。それがゲームの王国が現代の読者にも深く刺さる理由なのです。

記憶という物語が人を縛る

下巻でムイタックが開発する脳波を使ったゲームチャンドゥクは、人間の記憶と感情の関係を科学的に問い直す装置として機能します。小川氏が作中で展開する感情とは、感覚情報が身体に表出するまでのプロセスが筋の通った話になるように再定義されたもの、つまり物語だという考え方は、現代の認知科学・神経科学の知見とも響き合います。

私たちが自分の記憶と思っているものは、実は脳が事後的に編集した物語である可能性が高いのです。この視点からすれば、ソリヤもムイタックも、自らが作り上げた記憶という物語に縛られながら行動し続けた存在だということになります。そして恐ろしいことに、クメール・ルージュの虐殺そのものも、誤った物語を信じた人間たちが引き起こした悲劇だったと言えるかもしれません。

深読みのヒント:ポル・ポトが自らの素性を否定し続けた理由とは

ポル・ポト(本名:サロット・サル)は、生涯を通じて公の場で自らがサロット・サルと同一人物であることを認めなかったとされています。この事実はゲームの王国の主題のひとつである記憶と物語と深く関わっています。自分が誰であるかを定義するのは、客観的な事実ではなく、自ら語る物語だという小説の哲学的テーマが、史実のポル・ポトにも重なって見えます。また小川氏はゲームの王国の中で、ソリヤがポル・ポトの隠し子であるかどうかを最後まで明確にしません。これは作者の意図的な選択です。親の記憶を持たないソリヤが、それでもポル・ポトの血の物語に引き寄せられていくという構造は、記憶とアイデンティティの問いと表裏一体をなしています。

マジックリアリズムという手法が生み出す効果

ゲームの王国を読んで多くの読者が驚くのが、現実の歴史的惨劇の描写に、輪ゴムで死の予兆を占う男や土を自在に操る農民といった超自然的な存在が何の断りもなく混在することです。これはマジックリアリズムと呼ばれる文学技法です。

マジックリアリズムとはもともと、ラテンアメリカ文学で発展した手法で、現実の世界に魔法や超自然的な出来事がごく日常的なものとして溶け込んで描かれます。ガブリエル・ガルシア=マルケスの百年の孤独が世界的な代表例として知られています。ゲームの王国でこの手法が使われる意味は深いです。ポル・ポト政権が行ったことそのものが、現実とは思えないほど非人間的な出来事でした。だからこそ、魔法的な事象を混在させることで、歴史的事実の不条理さが逆説的にリアルに浮かび上がってきます。現実の虐殺の描写と超常的なエピソードが並置されることで、読者はどちらが本当に非現実的なのかを問い直すことになるのです。

評論家はこのタッチを、百年の孤独よりも中国のノーベル賞作家・莫言氏の作品に近いと指摘しています。歴史の濁流と地を這う視線、乾いた土の匂いが漂う文体は、たしかにラテンアメリカよりも東アジアの大地に根ざしています。

作品が問いかけるメッセージ

ゲームの王国はカンボジアという特定の国の、特定の時代の物語です。しかし、この作品が現代の読者に突きつける問いは、決して過去のどこか遠い国の出来事として片付けることはできません。

正しいルールさえ設計できれば理想の社会が生まれるという信念が、なぜ時として大量殺戮へとつながるのでしょうか。クメール・ルージュが農業共産主義という理想のもとに行った虐殺も、ソリヤがゲームの王国の実現のために使う手段も、その根っこには理想は実現する価値がある、そのための犠牲はやむを得ないという論理があります。この論理は、歴史上何度も、そして世界中で繰り返されてきました。

また、小川氏が下巻で描く記憶とは物語であり、その物語を書き換えることで人の行動は変わるというテーマは、今日のフェイクニュースや歴史修正主義の問題とも直接つながります。過去をどのように記憶し、どのように語るかは、現在と未来の行動を決定します。だからこそ、カンボジアの歴史を題材にしたこの小説は、現代を生きる私たちにとっても切実な問いを投げかけてくるのです。

物語を読み終えた後に残るもの

読み終えた読者の多くが口にするのは、800ページでは足りなかったという感想です。これほどの大作でありながら、読後にもっと読みたいと思わせる作品は滅多にありません。

カンボジアの歴史的悲劇、記憶と物語の哲学、公正なゲームへの渇望と理想の腐敗、そして二人の人間が半世紀をかけて辿り着く終着点。これらすべてが、ひとつの大河の流れのようにつながって読者の胸に流れ込んできます。ゲームの王国が問うのは、結局のところ人間は何のために理想を持つのか、そしてその理想を守るために何を捨てることができるのかという、古くて新しい問いです。

読んだ後に、カンボジアの歴史を調べたくなる人は多いはずです。現地のキリング・フィールドを訪れてみたいと思う人もいるでしょう。それもまた、この小説が持つ力の証明です。難しそうという印象を持っている人ほど、ぜひ上巻の最初の章だけ開いてみてください。ページを閉じるタイミングを見失うことになるはずです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました