『コーランを知っていますか』はイスラム教のガイドブック

【本】

コーランを知っていますか』は、「ギリシア神話を知っていますか」や「旧約聖書を知っていますか」などで知られる阿刀田高氏の人気シリーズの一冊であり、日本人にとって最も馴染みが薄く、かつ誤解されやすい「イスラム教」の世界への入り口として、これ以上ないほど親しみやすいガイドブックです。本書の最大の特徴は、著者が宗教学の専門家としてではなく、あくまで「好奇心旺盛な一人の日本人小説家」という視点を貫いている点にあります。そのため、小難しい神学論争は一切排除され、「なぜ豚肉を食べてはいけないのか」「一夫多妻制は本当にハーレムのようなものなのか」といった、私たちが抱く素朴な疑問から出発してくれます。

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阿刀田氏の解説で特に秀逸なのは、コーランという書物の性質を「頑固オヤジの説教」に例えている部分です。聖書のように天地創造から始まる壮大な物語があるわけではなく、脈絡のない命令や戒律が延々と繰り返されるコーランの構成を、著者は「話が飛び飛びで、くどくて、でも言っていることは生きるための実利的な知恵」であると評します。この「オヤジの説教」という補助線があるおかげで、読者は難解な聖典を、「砂漠という過酷な環境で生き延びるための、部族長による生存マニュアル」として、非常にリアルな手触りを持って理解できるようになります。例えば、一見すると女性差別に思える一夫多妻制や相続のルールも、当時の戦争未亡人や孤児を救済するための社会保障システムだったという背景が、アトーダ流の軽妙な語り口で解き明かされていきます。

また、本書は単なるコーランの解説にとどまらず、後半には著者自身がサウジアラビアやヨルダンを訪れた紀行文が収録されている点も大きな魅力です。異教徒が立ち入ることのできない聖地メッカの周辺まで足を運び、そこで目にした真っ白な衣装に身を包んだ巡礼者たちの熱気や、砂漠の静寂、そしてモスクから流れるアザーンの響きを、小説家ならではの筆致で描写しています。この旅のパートがあることで、前半で学んだ知識が、実際の温度や匂いを伴った「生きた宗教」として立ち上がってくる構成は見事です。

もちろん、9.11以降の世界情勢を意識し、「ジハード(聖戦)」という言葉がどのように一人歩きしてしまったのか、本来の意味はどういうものだったのかという重いテーマにも触れていますが、そこにも著者のバランス感覚が光ります。イスラム教を過度に美化するわけでも、危険視するわけでもなく、「隣の家のちょっと変わったルール」くらいのフラットな目線で語られるため、読者は身構えることなく読み進めることができます。

総じて、この本はイスラム教の専門書ではありませんが、ニュースで「イスラム」という言葉を聞いたときに感じる漠然とした不安や拒絶感を、「ああ、あの頑固オヤジたちの流儀ね」というある種の親近感に変えてくれる力を持っています。国際情勢を理解するための教養としてだけでなく、異なる価値観を持つ他者とどう向き合うかというヒントを与えてくれる、極めて現代的な意義を持つ一冊と言えるでしょう。読み終えた後には、遠い砂漠の国の出来事が、少しだけ身近に感じられるようになっているはずです。

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